動画生成AIの最近の活用方法の1つに、「亡くなって何年も経った人を生き返らせる」というのがあるそうです。
今の動画生成AIは、写真を読み込んでその写真から動画を生成する方法もあるので、できなくはないのですが、心情としてはどうなんでしょうねぇ。
例えば、
『亡くなった妻と、生前に行った海外旅行先で撮影された二人の写真があり、その写真の彼女はにっこり微笑えんでいたんです。』
と語る夫がいたとしましょうか。
昔も動画を撮影する方法は少ないながらもありましたね。
8ミリフィルムなどは懐かしい代物ですが、やはり今から15年以上前くらいだと写真の方が断然多いでしょう。
もちろん、その写真の妻はその時で時間を止めているので、にっこり微笑んだままです。
でも、にっこり微笑み続けるだけの妻に対し、動画生成AIを手に入れた夫は
旅行先で笑って動かない亡き妻が、もしかすると思い出の地で走り出して、こちらに振り向き優しい笑顔で僕を手招きしてくれるかも・・という思いでその技術に頼るわけです。
「生き返らせたい」
「もう一度動いている彼女に会いたい」
あの頃微笑んでくれていただけで十分なのに、その後を無理やり作成できる技術ができると、「その後」を見てみたくなってしまった・・・。
「久しぶり」
まぁ、これは色々な人に聞くと、賛否両論ありますね。
写真でにっこり微笑んでいるままだから思い出なんだ、と言う「生き返らせるのには反対」の人。
純粋に、亡くした人が久々に動いている姿を見たい、と言う「生き返らせるのに賛成」の人。
ちなみに筆者は、反対の方で、やはりその理由は単純に「気持ち悪い」と思ってしまうからです。
「あの人は死んでしまった」と認識して既に何十年も経ってから、「AIの予測(偽物)だけど生き返らせてあげるよ」というのは心情としてとても追いつくものではないのですよ。
確かに、あの写真のあの後動くとしたら、AIが作ってくれたように動いたのかもしれない。
でも、それはやはり自分の頭の中に「偽物」と割り切れる部分があって、どんなに動ている姿を見てもそれは滑稽でしかなく、本物に近い動きをすればするほど、寂しさだけが残るような気がするのです。
現在、思い出の形を残すものは写真ばかりではなく、動画も主流になりました。
なんなら撮影した直後に、世界中にその動画を公開する手段まで用意されています。
動画を撮影するのが当たり前の世代にとっては、将来大事な人を亡くした時に、AIに頼らずとも撮りためた動画を掘り起こせばよい時代になっているでしょう。
このような動画生成AIの使い方は、「写真しか残せなかった世代」だけで終わる可能性も高いですよね。
一方、AIはもしかしたら未来予測の精度が向上して、亡くなった人のその後の人生を作るようなサービスを生み出しているかもしれません。
・・・いや、もしかするとAIと医療の組み合わせで、死後というものを考えなくてもいい時代が来るかもしれない。
「死」の区切りを付けられなくなる、いや付けなくてもよくなる時代というわけですね。
その時代の人が、私たちの時代を振り返った時に、「古っ、死んじゃってたの?」という将来も可能性としてあるかもしれないのです。
常に人の生き死にを何らかの方法で見たり聞いたりし、様々な想いを巡らせてきた私たちでは、とても想像がつかない世界が待ち受けているのかもしれません。