軽井沢駅前に「茜屋珈琲店」という有名なコーヒー店があります。
とは言っても、新幹線の駅側ではなく、しなの鉄道側の方です。
まだ新幹線が通る前、群馬から碓氷峠を超えて信越本線が通っていた頃からある老舗のコーヒー店なので知っているかたも多いでしょう。
この「茜屋珈琲店」は値段が少々高めなのですが、おそらくその理由を知っている人は少ないと思います。
今は便利なもので、地図でその場所を探すと訪れた人たちの口コミを閲覧できるのでちょっと眺めてみました。
おおよそ書かれている内容は、「飲食は上手いが値段が高い」ですね。
コーヒーは美味しいのに、値段が高い。
ある口コミには、「これが軽井沢価格か」というものもありました(笑)
では、なぜ「値段が高め」のコーヒー店になったのか。
実は、「茜屋珈琲店」の値段設定には驚くべき理由が隠されていたのです。
店主が病弱だった
「茜屋珈琲店」を創業した店主の船越氏は若い頃の肺結核の影響で40くらいまでは定職に就いていませんでした。
その後、結婚をし何か自分にもできる仕事を探した時に、喫茶店をやってみようと思いついたのです。
しかし、病弱で体力的にハンデのある船越氏は、店に1日100人のお客さんが来たら困るので、50人くらいを想定しました。
他の人より半分の時間だけで働かなければならなかったが、それでも同じくらいの売り上げを上げたい。
でも、50人のお客さんだと売り上げとしては成り立たない。
それなら「コーヒーの値段を上げよう」と思い、当時の一般的なコーヒーの値段の「2倍」に設定したのです。
高い値段の代わりに美味しいコーヒーを追求した
いかにして「茜屋のコーヒーは高くない」と思ってもらうようにするか。
船越氏は、日本で唯一炭火焙煎していた業者からコーヒー豆を仕入れ、自分の店でブレンドし、お客さんが来るたびに一杯ずつコーヒーを淹れるようにしました。
もちろん、食器にもこだわり、値段に見合う「美味しいコーヒーを作る」点にこだわったのです。
支店出店の依頼が殺到
この初期の「茜屋珈琲店」は、神戸で開業したのですが、店の良い噂も広がり支店を出店しないか、という誘いが次々と舞い込んだのです。
その後、同じ神戸や大阪などに支店を出したわけですが、本来体が病弱だったために、人より半分の労働時間のつもりが結局忙しくなってしまいました。
そこで、軽井沢に本拠地を移そう、と考えたのです。
これまで出店したお店はスタッフに任せ、軽井沢へ「茜屋珈琲店」を移転しました。
なぜ、軽井沢だったのか。
それは、夏のリゾート地であった軽井沢であれば、夏の間だけ働けばよく、冬の間はお客さんが来ないから自然と1年の「半分だけ」の商売になるからでした。
結果的に、元々の希望だった「人の半分しか働か(け)ない」が守られた形となったのです。
働くとは何なのか
店主の船越氏は、1987年に逝去されていますが、それでも40年近く味と値段を落とさずに現在も経営を続けているのですね。
「茜屋珈琲店」の高い値段設定が、「働く時間を削るため」という理由が面白いと思いませんか。
本来、売上を上げるためには「誰よりもたくさん働け」、「顧客を獲得しろ」と言われてきたと思います。
それでも価格競争に巻き込まれたら、たくさん生産して利益を少なくしてまた生産する。
資本主義経済の生き残りをかけた戦いに、「働く時間をセーブする」、「提供する商品数を少なくする」、「顧客を逃がす」という言葉は存在しないはずでした。
しかも、この「茜屋珈琲店」のお話は、昭和40年代から50年代にかけてのお話ですから高度経済成長まっしぐらの時代です。
「24時間戦えますか?」とテレビCMで問われるくらいに忙しかったあの時代のサラリーマンの人たちからすれば、「茜屋珈琲店」の店主の働き方は別次元に見えるでしょう。
体調が理由で「人より半分しか働けない」ために値段を上げざるを得なく、その代わりに値段に負けない「最高級の物を追求した」姿は、クリエイターとしても見習うべき点がたくさんあります。
仕事の本質を突き詰めると、「最高の物をお客さんに提供できる」力があれば、働く時間など自分の自由に決められるのでしょうね。
働いた時間や仕事量ではなく、自分が今日1日お客さんのため、世の中のために何を提供できたのか・・・。
自信を持って答えられるくらいに筆者もこれからまだまだ「働く」を追求していきたいと思います。