前回、昭和時代の記憶を筆者の身の周りの出来事やテレビの向こう側のコンテンツなどを並べて勝手に懐かしんでいます。
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昭和の記憶が蘇るパート1
2024年のドラマで話題となり、ついでに流行語大賞まで獲得した「不適切にも程がある」では、令和時代の今となってはあり得ない昭和時代の慣習がたくさん出てきました。 昭和時代を生きた人たちにとっては当たり ...
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今回は引き続きパート2を書いていきたいと思います。
今回も身の周りとテレビの向こう側の2つに分けてみました。
身の周り編
- テレビのチャンネル
- アベック
- アレに砂糖?
- ちり紙交換
テレビの向こう側編
- 若王子支店長誘拐事件
- 紙テープ
- 11PM
- どっきりカメラ
では行ってみましょう。
身の周り編
テレビのチャンネル
昭和時代の晩年を小学生で過ごした子供たちが、親や先生などの大人たちから必ず言われたのが「何でもあっていいね」というもの。
家に帰れば冷蔵庫からいつでも冷たい飲み物が飲めて、見たい時にいつでもテレビを見られる。
「私たちが子供の頃はね・・電化製品なんて何もなかった」とよく言われたものです。
娯楽が何もない頃から比べればラジオ、テレビでいつでも娯楽があり、冷蔵庫や掃除機などの電化製品に囲まれた子供たちは何でもあって幸せだと言うわけです。
時は流れて、その子供たちが親になり自分の子供たちに言ったのは、「テレビにリモコンなんてなかった。昔はチャンネルをガチャガチャ回していた」ではないでしょうか。
テレビにリモコンが付いてきて、チャンネルがぱっと切り替わるなんてのは昭和の本当の終わり頃から平成に入った頃だったと思います。
筆者もリモコン付きのテレビになった時は感激していました。
それからたった30数年後に、ネットワーク通信によるネット番組をテレビにディスプレイさせて使う時が来るとは思いもしなかったですね。
そんな昔のガチャガチャしてチャンネルを回していた頃の筆者の家のテレビには、なぜか1と12の間に「U」というチャンネルが存在していました。
最初は、砂嵐で何も見えなかったのですが、その内「テレビ埼玉」が映るようになったんですよね。
電波を受信できない時に画面はザーっという音で何も見えなくなるのですが、それを砂嵐と言っていました
物理的にこのUチャンネルが存在していないテレビもあったので、どういう過程でUチャンネルにローカルチャンネルが映るようになったのかは定かではなありません。
少なくとも、現在のように電波を受信できればローカルでも好きなチャンネルを設定できる、という環境ではなかったのです。
アベック
これは、本当に昭和で消えていった言葉ではないでしょうか。
筆者の親の世代はベンチに座っている男女を見て「アベック」、電車で仲良く座っている男女を見て「アベック」、男女が一緒にいればアベックアベックうるさかったです(笑)
筆者の世代が色気づいたころは既に「アベック」から「カップル」となっていましたが、現在は仲良く見える男女を「夫婦」と日本語で言う場合もありますね。
なぜ付き合っている男女を「アベック」と言うのかよく分からず「親もみんなもそう言うから」とそれだけで使っていたような気がします。
アレに砂糖?
昭和時代は色々な物に砂糖をかけていました。
- 麦茶
- 納豆
- グレープフルーツ
なぜ麦茶に砂糖を?と思いますが、これは昭和時代では割と多かったと思います。
昔は砂糖も貴重品でしたし、糖分は疲れを取る意味もあって、遊びに行った先では砂糖入り麦茶を出してくれるお母さんも結構いました。
納豆はおそらく地域が限定されると思いますが、北海道では結構主流だったそうです。
先日もスーパーなどで納豆を選んでいるおじいさんが、「砂糖はあったか」などとおばあさんに聞いている人も見ましたしね。
そして、最後のグレープフルーツは昭和時代でもそれほど一般的に食べられていた果物ではなかったので、酸っぱさを抑えるために砂糖をかけて食べている人は多かったと思います。
ちり紙交換
これも都市部ではほとんど見なくなったかもしれませんが、新聞や古雑誌とティッシュペーパーを交換してくれる「ちり紙交換」です。
スピーカー付きの軽トラックでおじさんが回収に来るので「ちり紙交換車」と言われていましたね。
現代ではネット情報が発達し、新聞を取る人も少なくなり古雑誌がたまるほど紙の雑誌を読まなくなったので、次第に消えていきました。
しかし・・・
筆者が暮らす地域には今でも雪のない時期に時々来るんですよ。このちり紙交換車。
なぜ雪のない時期にしか来ないのかと言うと、お察しの通り防寒対策で防音効果にもなる家の窓がすべて閉まっていて、人もそんなに外にいないからです。
「毎度ぉ~お騒がせしております。ちり紙ィ交換車です。」
って言うあの独特のしゃべりで古紙回収しています。
地方だとまだ多少の需要があるのでしょうね。
テレビの向こう側編
若王子支店長誘拐事件
三井物産のマニラ支店長だった「若王子信行」氏が、マニラでゴルフの帰り道に誘拐された事件ですね。
1986年の11月15日にフィリピン共産党の軍事組織に誘拐され、翌年の3月31日に解放されました。
これも小学生の頃でテレビで見ていて、怖かった事件の1つでしたね。
何が怖かったかというと、誘拐した組織から若王子さんの指を切断した写真が送り付けられ、拉致されて弱っている若王子さんの生の声も送り付けられ、それらがニュースでも報道されたからです。
約半年後に解放されたのですが、指の切断や拉致されて弱っている声はすべて犯人側の偽装だったらしく、その後帰国した若王子さんが、報道陣に切断されていなかった指を見せていたシーンは今でもよく覚えています。
解放後はすぐに日本に帰国し日本国内で働いていたはずですが、この時の拉致が原因なのか、2年後くらいにすい臓ガンによる病死でこの世を去ります。
心労が原因だったのか元々ガンが進行していたのか、一般人であったにも関わらず「若王子さん亡くなったのか・・大変だったろうなぁ」と筆者の周りにいた人たちは大人も皆同情していましたね。
紙テープ
紙テープって今は全く見なくなりましたね。
この文章だけを読んでもおそらく現代の若者には理解されないでしょうね。
アイドルなどが歌っている会場など何かおめでたい宴会場やコンサートホールなどでは、盛り上がる場面で必ずと言っていいほど紙テープが放たれていました。
今では、安全上の理由や視覚的効果の演出が発達して消えていきましたけどね。
歌手やアイドルがテレビ番組で歌っている時に、自分に降りかかる紙テープを浴びながら歌い続けた人もいれば、巧みに紙テープをよけながら歌っている人もいました。
筒状のケースの中に入ったテープを投げて、投げ捨てず放った後は回収するようなものもありましたが、すべて消え去っていきました。
11PM
現代なら倫理的に問題となる女性の裸も昭和時代は当たり前にテレビで放映されていましたが、そんなエロ系番組でまず思い出すのが「11PM」です。
”大事な部分”以外は普通に映されていましたね
昭和時代の子供たちは女性の裸を見るならテレビか雑誌しかなかったので、深夜帯の番組である「11PM」はその中でもお金をかけずに親にバレないように命がけで見ようとした一つではなかったでしょうか。
一家にテレビは一台という時代ですから、夜中にテレビを見ようものなら親に怒られますしね。
でも、裸を見たいという欲望には勝てず・・・。
そんなせめぎ合いで親が寝たかどうかを確認しながらボリュームを小さくして見ていたわけです。
「よしっ!今日はバレなかったー」と安心して寝るわけですが、親は気が付いていたんでしょうね(笑)
どっきりカメラ
今だと「モニタリング」ですか、昔のどっきりカメラを踏襲しているのは。
昭和のどっきりカメラほど「緊迫感のあるヤラセ」はないでしょうね。
特に、今ではすっかり演歌歌手になってしまった「長山洋子」を引っかけた回は、その後の放送倫理にも影響を与えるほど物議を醸しました。
本気で女優が泣くほど相手を騙せるのか・・。
どっきりカメラには「どっきりする以上」に緊迫感のある映像も多かったのを憶えています。
コンプライアンス違反って映像がつまらなくなるのだと思ったのは「モニタリング」を見てからですね。
コンセプトはどう見ても「どっきり」と同じなのに、何かが違う。
おとなしく、むしろ感動を呼び込むくらいに人を騙すわけですが、それは「ヤラセだとみんなが分かっているヤラセ」なんですね。
つまり体のいい劇場型なわけです。
「モニタリング」を批判するわけではないのですが、安心感が約束された映像はやはり物足りなさを感じてしまいます。
(まとめ)時代はまわる
時代はまわり昭和時代の常識を楽しんで青春を過ごした人は、令和の時代に倒れている人も多いかもしれません。
でも時代はめぐるので、やっぱり生まれ変わってまた歩き出すしかないですね。
今こうして簡単に自分の書いた文章がネット上に公開できるのは、今日をくよくよせず今日の風に吹かれているからです。
昭和の名歌番組「ザ・ベストテン」は、ランキング発表時に司会の「久米宏」がその歌手の近況などを早口ながらめちゃくちゃ分かりやすく説明していましたね。
それを意識して上の締めを書いてみました。