道ですれ違った見ず知らずの人に、
「あなた、一体何者ですか?」
と聞かれたとします。
あなたは、知らない人からの問いかけに自信をもって「自分はこういう者だ!」と返せますか?
これは、なにも自分の今やっている仕事が何であるかを答えなさい、と言っているわけではありません。
問いかけにぱっと答えられる人というのは、例えばプロスポーツ選手であれば「自分は4歳のころから野球のボールを触り始め、野球と共に人生を過ごしてきた。そして今現在はプロの選手として野球をやっている」などと返せるでしょうし、歌手であれば「小さい頃から歌うのがとても好きで、大人になっても音楽の道に進み、ずっと音楽ばかりやってたらいつのまにか本当に大好きな歌が自分の一部になっていた」となるかもしれません。
こういった話をすると、何のプロでもない自分は「いやぁ、自分は何者でもないなぁ・・」と答えに窮してしまい、結果「そうか!誰にも負けない大好きなもの、趣味を持てばいいのか!」
と考える人がいますが、そういう話ではありません。
毎日自分で考えて今この瞬間にも様々な選択肢の中から活動をしているはずなのに、それが仕事であっても趣味であってもその行動の先にある情熱を見いだせていない。収入はある、成果もある・・・、でも一体自分は何者であるかを答えられない。
そういう人は結構多いものです。
では、この問いに対する自分の答えが見つからないのであれば、どうすればいいのでしょうか。
その場合は、明確な自分像を語れない自分の現在の状態をまずは受け入れるといいでしょう。
今の自分は何者でもないのだ、と。
仕事をしている自分が今の自分の本来の姿ではない、と思えばそこから情熱を傾けられるものを探し始めてもいいわけですし、何かに打ち込んできて好きな趣味などをやってきたのにそれが「自分が何者であるか」の答えとして出てこなかったのであれば、やっぱり自分を見つめ直して新しい自分を表す何かを取りに行ってもいいわけです。
そういえば、ちょっと前に「さよならマエストロ~父と私のアパッシオナート~」というTBSのドラマがありましたよね。
主人公である夏目俊平は、元々プロの指揮者で世界的にも表舞台に立つほど有名な方だったのに、娘との確執もあり音楽の世界から離れてしまいました。
夏目は高校3年の時に初めてクラシックに触れ「これだ!」と自分の生き方を見つけ、それが後々の自分を形作り情熱を注いでいたにもかかわらずです。
音楽から離れてからの数年は自分が何者であるか分からない状態が続いていましたが、家族がいる日本の地方都市に戻ってから地元の市民オーケストラの人たちと触れ合う内に、プロの指揮者ではなくても音楽を楽しめる、市民オーケストラのみんなと演奏している時間が楽しいと、自分が情熱を向けられるものは音楽であると再認識し最後はドイツへと旅立っていきます。
正にアパッショナート、イタリア語で「情熱的に」の意味です。
もちろん、こんな風に周りの人みんなで自分の背中を押してくれるなんてのは、滅多にないとは思います。
もし、自分が何者であるか分からない時は・・・
誰も自分の背中を押してくれない時は・・・
自分で探しに行けばいいだけです。
資本主義経済の原理原則は、「自由であること」。
自由に生きていいと言われているのに、実に難しいのがこの自由に生きる術(すべ)だったりします。
自分も50代が迫ってきているのに、いまだに自分がよく分かっていません。
だから、自由に気ままに自分が何者であるのか、何者になりたいのかを探している最中だったりします。